![]() 浅草寺本堂 |
不思議ワールド 浅草寺物語 浅草は不思議な町です。遠い飛鳥時代初期の628年に東国の歴史にも登場しない淋しい場所であった浅草に、突如、「浅草寺」が建立されました。 日本最古の聖徳太子建立の奈良「法隆寺」が608年、日本の国家としての序章が始まった「大化改新」が645年、という遥か彼方の大和時代のお話です。 約1,400年の歴史を持つ「浅草寺」の不思議ワールド探しの旅に、皆様とご一緒に出発したいと思います。 |
![]() 雷門 |
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| 第4話 土師(はじ)氏と檜前(ひのくま)氏のお話 | 令和7年1月18日(土) |
【土師氏について】 土師氏の祖先は素戔嗚尊(すさのうのみこと)の息から生まれた天穂日命(あまのほしのみこと)とされています。野見宿禰(のみのすくね)が土師氏の始祖とされ、11代垂仁天皇の時代活躍したとされています 。相撲の始祖とも伝わります。 野見は埴輪を作る道具の「ノミ」です。野見宿禰の子孫である土師身臣が16代仁徳天皇から「土師連」の姓を賜り、後に「土師宿禰」となって土師氏を名乗るようになりました。 また、土師氏の祖先を辿ると、檜前氏と同系の「東漢氏の祖、阿知使主(あちのおみ)」であるとの説もあります。 土師氏は、群馬県や埼玉県を拠点に、当時関東地方で勢力を伸長していた大豪族の古墳の築造・埴輪制作、葬送儀礼などに貢献しました。特に、浅草湊は東日本でも有数の「良港」で、荒川(隅田川)上流の埼玉や利根川上流の群馬の大豪族の古墳・埴輪の制作は浅草湊から船で人や資材を運び盛んに行われたと想定されます。微高地浅草の地質は埴輪制作に欠かせない粘土が大量に含まれており、土師氏が浅草に定住した大きな要因と言われている。 浅草地域の土師氏の居住は現在の東京都台東区雷門2丁目に「土師中智居住跡」が確認されています。 そして、①武蔵国分寺跡の発掘現場から「白方郷土師」と刻印された屋根瓦数枚が発掘され、遠く武蔵国分寺の建設にも「浅草:土師氏」が関わったことが判明しています。*(白方郷=浅草と呼ばれる以前の浅草の地名) ②源頼朝が鎌倉に幕府を開いた直後に、鶴岡八幡宮の大改修が行われたが、地元鎌倉には大工がいないので、浅草の大工集団がこの建設工事に鎌倉幕府より呼ばれたとの記録が「吾妻鏡」に記録されている。 これらのことから土師氏は一定規模の技術集団として、浅草地域に居住していたことが推定できます。 【檜前氏について】 檜前氏の祖先とされる阿知使主(あちのおみ)が、15代応神天皇の時代(200年~310年)に百済17県の人々を率いて渡来したとされ、「東漢氏(やまとのあやうじ)」と呼ばれました。 大和国高市郡檜前村(現在の奈良県高市郡明日香村付近)に居を定めたとされています。 東漢氏は製鉄技術や須恵器の生産技術を日本に伝えたとされ、檜前氏(ひのくまし)は東漢氏から派生した一族の子孫とされ、中国の後漢霊帝の子孫とも伝えられています。 檜前氏は関東地方、特に北武蔵(現在の埼玉県北部)や千葉上総(現:市原市あたり)に一大根拠地を持っていたとされています。この点からも良港の浅草湊を介して檜前氏や土師氏との経済・文化交流があったと考えます。 檜前氏は道路・河川・駅の整備、牛馬の牧場経営など特技を活かして関東各地域のインフラ整備に尽力し、東日本制覇による全国統一の「大和朝廷の夢」の実現に大きく貢献したと推測しています。 大宝元年(701年)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる官営の牧場が39箇所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32箇所の牧場(勅旨牧)が設置されました。東京には「檜前の馬牧=浅草」「浮島の牛牧=向島~両国」などが設置されました。 浅草は「馬」が付く地名でつながっています。駒形橋橋詰に馬頭観音が祀られている「駒形堂」→浅草寺裏の「馬道」→現在の浅草6丁目は広大な「馬牧=牧場」→そして石浜近辺を流れる「馬洗い川(忍川)」があり、牧場と一体となった環境が整備されていたと考えます。 「駒形堂」~「馬道」~「檜前の馬牧=牧場」→「馬洗い川」と馬に関わる地名が繋がり、浅草全体が「牧場の管理」に適した整備が進んだのではないかと推測します。 TOPに戻る 次回をお楽しみに |
![]() 野見宿禰 |
| 第3話 仏教伝来と渡来人の貢献・定住 | 令和6年12月13日(金) |
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極東アジア(朝鮮半島・中国大陸)から渡来人が盛んに日本に移住してきたのは4~7世紀頃です。とりわけ東漢氏(やまとのあやうじ)が日本と関わりを持つ起源は、応神天皇の時代(4世紀末から5世紀初め頃)に遡ります。
一方、大和朝廷は奈良県南部の大和地方の豪族が連合して3世紀後半~4世紀にかけて成立しました。日本国のその後の発展のためにも、朝廷成立と大量の渡来人移住が時期的に重なったのは日本国の幸運であった思います。 大和政権は、渡来人の持つ先進的な技術や土師氏の古墳・埴輪の製造など活用し、西日本を中心に天皇家や貴族、大豪族等の古墳(墓)や埴輪の整備、河川・道路・橋・牧場や寺院などのインフラ整備を進めるために渡来人など技術集団の定住政策を進めました。 6世紀を迎える頃には西日本の権力者を中心に推進してきた一連のインフラ整備も一段し、6世紀半ばごろからは東日本の豪族が勢力を拡大させるなか、538年には仏教を日本国の国是とする「仏教伝来」が実現しました。そうした時代背景の元、東日本各地への渡来人の定住策を朝廷は推し進めました。 浅草に技術集団である「土師氏」や「檜前氏」が定住したのはそうした時代背景がもたらしたものと考えます。「川で仏像を拾い上げ、草堂で祀る」といった全国画一のお伽話では無いと感じているのは私一人では無いと思います。 特に「土師氏」の定住は、6世紀後半の荒川(入間川)流域の古墳・埴輪の増加状況から荒川と直結する浅草湊周辺に「土師氏」の定住が始まったことは当然ではないかと考えます。 |
図2 ![]() 5世紀初期に仏教を日本国に教唆した百済国の「聖明王」 図3 日本の発展に仏教を国是として仏教を受容した「欽明天皇」 図5 歌川広重『名所江戸百景』より「隅田川橋場の渡し かわら窯」。前景が浅草橋場町と呼ばれた一帯で、今戸焼の窯から煙が上がっている。浅草の微高地には粘土層が豊富だったことが分かる。 図6 ![]() |
| 第2話:浅草の発展は 「微高地と良港」に支えられた | 令和6年12月8日(日) | ||
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観光地として現在も魅力ある発展を遂げる浅草。その基盤は浅草は「微高地・良港」の自然環境によるものです。 平安時代末期、江戸重継の江戸館(後の江戸城)の高みから江戸湊を眺めると見えてくる大きな島が二つあった。一つは江戸城の眼下に広がる「江戸の前島=現在の銀座通り」であり、2つ目は左手の奥、本郷台地、上野台地のはるか先に微かに見える「浅草外島(としま)=現在の浅草寺周辺」でした(図2を参照)。 浅草外島は、太古より入間川(現:隅田川)に日本有数の大河と言われた利根川本流(古利根川)が「浅草湊」に流れこみ、その侵食の過程で大量の土砂が運ばれ「石浜~浅草~鳥越の丘」の約6kmにわたり堤防状の自然微高地(平均3m高✕幅300m)が自然の力で作られました。 ちなみに、「江戸前島」は、太古、小金井市あたりを源流に北区王子で急カーブし東京湾に注いでいた大河で、本郷台地と上野台地の間を激流で流れ、両台地の大量の土砂を削り、江戸湊に運んで出来た島状に突起した土地で、現在の「中央通り=銀座通り」です。
このように、関東でいち早く7世紀初期に浅草寺を地域のシンボルとして歴史を開いた浅草湊周辺の発展は「自然微高地」「良好な浅草湊」というな二つの自然環境の条件によってもたらされたものです。 この堤防状の自然微高地の上に「石浜神社~待乳山聖天~浅草寺~鳥越神社」などの歴史的な寺社が創建され、軍事的な役割を持つ「馬牧=檜前の牧」の設置、交通インフラとしての「古代東海道・奈良官道の敷設(武蔵国分寺~下総国分寺」などの道路網も整備され、大和政権が目指した東国征伐の一つの拠点として浅草は位置づけられたと考えています。 この微高地の上で、「源頼朝の隅田川渡河(鎌倉幕府成立の要因」)」「新田義興と足利尊氏の争い(石浜城)」など数々の歴史ドラマも展開された歴史的な場所でもありました。 次回をお楽しみに (次回は「浅草に渡来人が定住した時代背景」というテーマを予定しています) TOPに戻る |
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| 第1話: 浅草寺の歴史は謎だらけ | 令和6年12月 1日(日) |
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浅草の魅力とはなにか? 浅草は年間3千万人を超える外国人観光客を集める、日本を代表する観光地です。外国人が感じる浅草の魅力とは何なのでしょうか? 先ず、浅草寺は飛鳥時代初期の628年に創建された東京最古の寺院で1400年近い歴史があり、雷門や五重塔など歴史ある建造物が立ち並び、日本の伝統的な町並みや寺院建築を見学できます。 加えて、浅草寺周辺では着物レンタルや人力車、和食やお抹茶体験など、日本の伝統文化を直接体験できるアクティビティが充実しています。 そうした狭い限定的な地域で歴史や伝統、生活文化を感じながら観光を楽しめる、といったことが浅草の観光地としての魅力の根源になっているのでしょう。 第1話:浅草寺の歴史は謎だらけ 東国の草深い僻地ともいえる浅草地域に「浅草寺」が建立されたのは飛鳥時代初期の628年です。大化改新(645年)の17年前、日本最古の寺院である法隆寺の建立(607年聖徳太子が建立)から遅れること21年後のことです。 この頃「浅草」周辺には朝鮮南部地域(主に百済国)からの渡来人である「東漢氏(やまとのあやうじ)」の氏族といわれる)、「檜前氏(ひのくまし)」や野見宿禰を祖とする「土師氏(はじし)」などが浅草寺周辺に居住していたと私は考えています 土師氏(はじし)は東日本に勢力を広げる豪族や皇室の古墳・埴輪づくりに取り組み、檜前氏(ひのくまし)は馬の飼育、牧場の管理、寺院の建設などの先進的諸技術を駆使して朝廷に尽くしました。朝鮮百済国から日本に持ち込んだ渡来人を先祖(東漢氏=やまとのあやうじ)に持つ人々です。 浅草寺縁起によれば、628年3月8日の早朝、宮戸川(現:隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟が聖観世音像を網で引き上げました。この像を地元の文化人、土師中知が自宅に祀ったのが浅草寺の始まりと縁起に記されているのみで詳細は不明です。 しかし、土師中知、檜前浜成・竹成兄弟、は共に従来の日本には無かった高度の技術や文化を持っ氏族です。浅草寺は土師氏の「氏寺」であり、浅草寺裏あたりに檜前氏が管理した牧場である「檜前の牧」があったことは学問的にも定説になっている。 即ち、6世紀後半の浅草周辺には、当時としては極めて先進的な知識・技術を持った渡来人などが一定の規模で定住していたと推定できる。 この技術集団の浅草周辺定住は、東日本(夷狄征伐)の制圧が最大の政治課題であった「大和朝廷」の布石であり,征伐実現の戦略でもありました。 物流の拠点としての良好な浅草湊や古代東海道の存在、豊富な粘土層の存在(土師の埴輪製造の必須条件)などの浅草の優れた立地条件が合致したと考えています。それが又、優秀な「東漢氏系渡来人」や「土師氏」などの奈良の都からの集団移転定住になったと筆者は考えています。(今戸焼きなどに粘土層が存在していたことがわかる) しかし、浅草寺縁起を見るまでもなく「檜前兄弟が聖観世音菩薩像を宮戸川で網で引き上げ、土地の文化人、土師中知が浅草寺を開いて祀った」という童話的、漫画チックな伝承のみでは浅草寺の真実は謎めいており「不思議ワールド浅草」の謎解きをしたくなった次第です。早速、浅草謎解きの旅に出たいと思います。 【注記】 ◆東漢氏(やまとのあやうじ) ◆土師中知(はじのなかとも) ◆檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり) ![]() 浅草神社境内の「三社神」の碑 次回をお楽しみに |
![]() 浅草寺「宝蔵門」 ![]() 大阪藤井寺市 土師氏の氏寺「道明寺」 ![]() 檜隈寺跡/於美阿志神社(東漢氏の氏寺) 奈良県高市郡明日香村檜前 |