お江戸下見日記 日々歩いた江戸散歩の日記です 平成23年10月17日(月)開始 平成26年 3月 5日(水)更新 読後の感想は「こちら」に送信ください |
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「君が代」は外国製?
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山手の丘の象徴:外交官の家 | |
妙香寺山門前の「君が代発祥の地」の碑 | |
妙香寺本堂 | |
妙香寺境内の記念碑 | |
当時、外国軍が駐屯した遺構が残るフランス山(港が見えるが丘公園) |
上野東照宮:金色殿鮮やかに蘇る 平成26年2月12日(水) 上野東照宮は、寛永4年(1627年)、江戸城築城の指揮を執った藤堂高虎が上野の高虎自身の敷地内に創建したものです。元和2年(1616年)、徳川家康は将軍の座を息子の秀忠に譲り、将軍後継は徳川家からを世に宣言し、自らは駿府に退いて大御所政治を実行しました。駿府にて危篤の家康は、自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと最も信頼を寄せていた藤堂高虎と天海僧正に遺言されたという。 現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したものである。上野東照宮は金箔をふんだんに使い大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれているそうです。その後戦争や震災などの幾多の災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物です。 社殿は2009年1月から2013年まで修復工事が行われていましたが、昨年末完成しました。日光東照宮を連想させる煌びやかな上野東照宮をひと目観ようと多くの人が訪れていました。特に外国人が多かったです。東京オリンピックの際は、「東京スカイツリー」〜「浅草寺」〜「上野東照宮」〜「旧江戸城」は。外国人に一番人気のある観光コースになるでしょう。皆さんも一度足を運んでみてはいかがですか。五重塔も素晴らしいです。 |
正面から見た唐門。金箔で塗りつくされて絢爛豪華。金色殿と呼ばれた理由がわかる。 外国人が熱心に見学していました。 |
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これは素晴らしいですね。左甚五郎作と伝えのある昇り龍と降り龍が見ものである。オリンピックで来日する外国人のため息が聞こえてきそうです。 | |
左横からの唐門。ホントに美しいです。ここまでは無料です。 | |
社殿。ここは500円払って入園しないとみられません。徳川将軍家の絶大な権力を感じます。絶対に見ものです。 | |
透塀(すきべい)。彫刻は上欄には野山の動物・植物。下欄には海川の生き物が生き生きと表現されています。想像上の動物もいます。なかなかの見応えです。 | |
ため息のでる美しい彫刻や装飾。 | |
ため息のでる美しい彫刻や装飾。 | |
ため息のでる美しい彫刻や装飾。 皆さんもどうぞお越しください。間違いなく江戸時代にタイムスリップできますよ! |
大奥の権力闘争(お福とお清を思う) 2代将軍徳川秀忠と正室「江」の間に4男として生まれた「徳川忠長」。忠長は、兄の3男家光と3代将軍の座を争い、敗れ、悲劇ともいえる人生を送った。 大奥を代表する女性の権力闘争事件です。 世継争いに勝利した春日局には3000石という女性としては破格の扱いを受け、現在の文京区春日(本郷1丁目)に広大な屋敷地が与えられ、成功者としての人生を送る。 一方、忠長の乳母であった朝倉清は忠長自害後、忠長の正室織田昌子(松孝院)と共に出家、昌子の一字を賜り昌清尼を名乗り昌清寺(本郷1丁目)を建立した。高崎で死後43年間も墓も立てられない忠長の悲運を痛み、その霊を悼むためである。 先だって本郷1丁目(東京ドームの前)を江戸散歩の下見をしていて、大奥に生きた2人の女性の人生模様に思いを馳せました。 |
出世稲荷神社」(春日稲荷神社) 文京区本郷1-33-17 寛永7年(1630)の鎮座 この付近(後楽園東京ドームに隣接)が春日局の屋敷だった時、邸内鎮守として創建、春日局が敗軍の将の娘から大奥の権力者へと出世したことから、出世稲荷と称されるようになったといいます。 |
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麟祥院 文京区湯島4−1−8 春日局の墓 二代将軍家光の乳母春日局(幼名福・1579〜1642)の隠棲の場として、寛永元年(1624)に創建され、死後菩提寺となった。麟祥院は、局の法名麟祥院殿仁淵了義による。寺宝に家光により奉納された狩野探幽筆の春日局像がある。 男性の戒名と間違えそうですね。日本史上最高の女性政治家だと思います。 |
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昌清寺 文京区本郷1−8−3 ここに忠長の乳母の昌清尼(朝倉清)のお墓がある。 春日局の出世稲荷神社とは隣近所うという近さが皮肉でもある。 |
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門前には忠長と昌清寺の関係を記した碑が建っている。 |
スカイツリーから眺めた江戸の町 平成26年1月31日(金) 毎日行っている早朝の速足散歩。最後の将軍徳川慶喜が江戸に別れを告げ水戸に帰った千住大橋から天下取りのため源頼朝が隅田川を渡河したことで有名な白鬚橋を往復する約1万歩のコースです。 隅田川沿いに再開発で整備された専用のウオーキングコースを歩く楽しい散歩です。また、目の前にはスカイツリーが迫る素晴らしい景観の中を歩きます。 隅さて、その東京スカイツリーからの眺めは、江戸時代の絵師、鍬形恵斎によって描かれた「江戸一目図屏風」の構図と酷似していることは有名です。スカイツリー展望台の眼下に広がる現代の大都市東京の景色と、恵斎が描いた屏風の絵がピッタリ位置していることは驚きです。 江戸一目屏風は恵斎が押上げあたりから想像で描いた鳥瞰図です。そういう意味でもスカイツリーが建った場所は江戸を俯瞰するには絶好の地でありスカイツリー計画される必然の場であったのだろうと思います。 そんなことを考えながら毎日速歩に励んでいます。この時期は都鳥も友達のようにすり寄ってきて癒されます。早起きは三文の徳+健康の徳を実感しています。 |
大倉山の梅が開花しました。 平成26年1月29日(木) 下見の場所=横浜市港北区「綱島〜大倉山周辺」約2万歩強」 新規散歩コース作成のため綱島から大倉山周辺を下見する。綱島の地名の由来は川の中州や湿地に浮かぶ島から来ている。縄文時代には谷地のそばまで海岸線であったことを偲ばせます。 綱島の古い寺々を巡り、綱島公園や市民の森で竹林や様々な植物など豊かな自然を 満喫しました。大倉山では大蔵山記念館の素晴らしい建築に感動しました。そして記念館の裏にある広大な大倉山梅林では、写真のような見事な梅が開花し始めていました。春遠からず・・・を実感しました。 |
実現成るか?江戸城天守郭再建!!! 平成26年1月25日(土) 下見のため出かけた旧江戸城大手門の前で「江戸城天守を再建する会」の宣伝隊に遭遇しました。2020年東京オリンピック、東日本大震災復興のシンボルとして再建を目指すNPO法人です。会員は3,000人を超えて、PR活動やイベントなどを行い盛り上げていきたいとのことでした。 明治維新以降日本の政治リーダーたちは欧米をモデルとした富国強兵の国づくりを目指したため、世界でも独特な特徴を誇り、世界中の人が注目し称賛した日本の伝統文化(浮世絵、彫金、壁絵、土器などなど)が軽視された時代が長く続きました。 そのため、そうしたジャンルの素晴らしい国宝級の数多くの作品が二束三文で買いたたかれ海外に持ち出されてしまい、いまでは外国の博物館に行かないと本当の日本の伝統技術や作品が見られないといった世界の笑いものになるような珍現象が起きている。 2020年の東京オリンピックで、「おもてなし」という言葉がはやっていますが、世界の人々は、日本の経済的豊かさや現代的都市景観はそれほど魅力を感じないでしょう。それは世界のいたるところにある話ですから。 彼らは、自国にはない独自の歴史の中で育まれた江戸文化・徳川文化を核とする日本の伝統文化に触れたがるはずです。京都にはそれが残り、東京は伝統文化の壊滅といった現状では世界のお客様は落胆するのではないでしょうか。 そのためには、東京の街中で重要な歴史のポイントは英語併記のビジュアルな統一した歴史・観光案内版を計画的に配置していくべきだと思います。これには行政だけでなくビルや土地を諸州する民間や企業も共同して当たらなければ実現しないと思います。そうこう考えるとオリンピックまで時間はあまりありませんね。 とりわけ、個人的には「江戸城天守郭の再建」はオリンピックを目標にした文化シンボル事業として大賛成です。実現すればスカイツリーを超える東京の歴史的シンボルの誕生になるでしょう。というわけで私伊藤も賛助会員になりました。皆さんもいかがですか? ★江戸城天守を再建する会https://npo-edojo.org/edo_castle/form/nyukai_f.php |
再建する会 左が副理事長さん 寒い中ご苦労様 |
赤坂ファン!勝海舟 平成25年3月1日 幕臣で東京を火の海にせず安全に明治維新に移行するため江戸城の無血開城交渉の大役を務め、実現した勝海舟。彼は今は下町の両国の貧しい御家人の子として生まれだが、青春時代からなぜか赤坂の地を愛し、地区内を三カ所も移り住むほどの赤坂ファンである。先ずは港区赤坂6−13−19に「ソフトタウン赤坂」。この地は幕末から明治にかけて、幕臣として最も活躍した安政六年(1859)から明治元年(1868)までの住んだ屋敷跡だ。 何故赤坂に住み始めた理由は若き日に赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂二丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚二十三歳で赤坂田町中通り=現赤坂三丁目十三番二号(みすじ通り)の借家で所帯を持ったのが始まりだ。 三十六歳からは赤坂本氷川坂下にある上記の現ソフトタウン赤坂の地に住んだ。明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治五年(1872)再び上京し、満七十六歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地=現赤坂六丁目六番十四号(現氷川小学校)に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。 現ソフトタウン赤坂の地に住んだ時代の安政七年(1860)に幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。 文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。勝海舟が最も輝いていた時代である。 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区の洗足池湖畔の墓に眠っている。そのうち洗足池を訪ねてみようと思います 、 |
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江戸無血開城に尽力した勝海舟が36歳から9年間(安政6年1859〜明治元年1868)ここに住んだ。当地に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取・咸臨丸艦長として、上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として始めて太平洋横断・往復に成功した。 |
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45歳の時、後徳川慶喜に従って静岡市に移ったが、明治5年に上京し満76歳で亡くなるまで現氷川武道場の所に居住した。右の写真は亡くなるまで居住した 所にある石碑です。参議・海軍卿・枢密顧問官・伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京し市に寄付され、平成5年 (1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。 | |
東京時代まつり 平成23年11月3日(木)文化の日 東京都台東区浅草寺周辺 散歩仲間に声をかけて、浅草の東京時代まつりを見た。曇天の一日でしたが雨もなく、期待していた以上に素晴らしい内容の時代絵巻パレードを十分堪能しました。特に、中村勘三郎翁と片岡仁左衛門がパレード参加して大きな拍手を浴びていた。やはり歌舞伎役者は浅草がよくお似合いです・・・ 江戸時代後期の天保の改革で江戸の中心地(日本橋・人形町)を追われた江戸歌舞伎は、浅草寺裏の旧猿若町に中村座、市村座、森田座など集団移転のような形で大挙移転し、江戸の終わりまでの約30年間興行していました。浅草はとても歌舞伎と縁の深いところなのです。 現在、平成大歌舞伎中村座が11月〜来年6月まで浅草公演を行っていますが、それもこれも猿若町時代にお世話になった中村座の浅草へのお礼返しと言われている。 僕個人としては、歌舞伎座は業務地の東銀座ではなく、日本の伝統芸能文化、下町の心意気が残る浅草こそふさわしいと思っています。権力で所払にあった歌舞伎を温かく迎えて育てた浅草は歌舞伎と相性が良い地域なのです。関係者は深く考えるべきであると思っています。 なにはともあれ、深まる秋の一日、平安時代から現代までの時代絵巻楽しめた収穫の一日でした。 ≪パレードの順概要≫ 浅草のよろこび 金龍の舞⇒東京時代まつり本旗、手古舞⇒奉行⇒東京のあけぼの 浅草観音示現⇒在原業平 東下り⇒源 頼朝 隅田川陣営⇒北条政子 浅草寺参詣⇒三社大権現祭礼 船渡御⇒江戸開祖太田道灌⇒徳川家康 江戸入府⇒大奥御殿女中⇒徳川家光 三社権現社再建寄進⇒参勤交代 大名行列⇒元禄花見踊り⇒義士の討ち入り⇒大岡越前守と江戸町火消⇒浅草市村座七福神舞⇒猿若三座 江戸歌舞伎⇒江戸の人気者⇒江戸芸者⇒黒船来航・浦賀奉行⇒特別参加 日野市新撰組⇒十五代将軍 徳川慶喜⇒江戸から東京へ⇒文明開化 樋口一葉⇒浅草奥山風景ーーEND |
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樋口一葉と本郷菊坂のこと 平成23年10月23日(土) 文京区本郷4-32・31 今日は本郷菊坂周辺の東京に残された数少ないレトロな町並みを散策。ここは菊坂文士村という人もいるくらい明治〜大正期に多くの小説家が居住していた。樋口一葉、石川啄木、尾崎士郎、宮沢賢治など30人以上の日本文学史を彩る作家・詩人が暮らした町である。 なかでも明治期に活躍した樋口一葉(1872〜1896)にとって、ことさら縁の深い地である。一葉は24年間の短い生涯のうち、約10年間、本郷台地の菊坂周辺に居住した。幼いころは、東京大学赤門前の法真寺の隣に住み、後に「ゆく雲」の中で法真寺の庭に咲く草花のことを紹介し、自宅を「桜木の宿」と表現している。 その後父の死を契機に、本郷菊坂下の路地裏奥の貸家に転居、極貧の生活の中、母と妹を養いながらこの地で小説家として立つ決意をし、近所の伊勢屋質店に出入りしつつ、半井桃水の指導を受けながら、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を執筆した。一葉が最も輝いた時代である。 一葉、享年24歳。貧しさに苦しみながら若くしてこの世を去るが、その文筆活動の質の高さ、またその膨大な量にただただ感心するのみである。便利で豊かな現代社会を軽風的に生きる僕たちに一葉の生涯は警告を鳴らしているような気がしてならない。
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「時の鐘」を訪ねて・・・・ 平成23年10月22日(土) 今日は久しぶりに浅草寺に行った。大変な人出で仲見世も押し合いへしあいで、なかなか前に進まないほどだった。混雑を避けて、裏道から浅草寺境内の弁天山にある「時の鐘」の写真を撮った。 「花の雲鐘は上野か浅草か」松尾芭蕉の有名な句である。芭蕉は深川は隅田川沿いの庵で暮らしてい たが、=春の雲が桜色に染まるなか、時の鐘が遠く聞こえてきた。あの鐘は上野の山の鐘か、それとも 浅草寺弁天山の鐘か?・・・・=深川にいて浅草や上野の時の鐘も聞こえてくる、なんとものどかな時 代であったことを象徴する句である。 江戸の時の鐘であるが、全部で江戸8〜12所にに設置され市民に時を知らしていたと言われている 。これで江戸中に聞こえたわけだから、江戸の町がいかに静かで高い建物がなかったことが分かる。 さて、時の鐘の由来は、大道寺友人という人の「落穂集追加」によると、家康が江戸に入国した頃、江戸城内に鐘撞堂があって、6時の鐘をついていたが、やかましかったため、鐘をやめて太鼓を打たせた。しかし、秀忠の代になって、鐘を聞きなれていた人々のために、江戸の要所に場所を選択して、鐘を撞くよう仰せ付けられ、町奉行が石町(現在の日本橋室町3丁目交差点付近)に鐘撞堂を造らせたのが江戸の時の鐘の起源で、今は小伝馬町の十思公園内に移設されている。 浅草寺の時の鐘も古く、現在の鐘は元禄5年に作られたもので、牧野という大名が金200両を寄進している。今鐘を溶かすと200両が溶け出してくるかも知れない。 その後、江戸の町が拡張を続け、人口が増加するに従い、鐘撞堂は各地に広がり、最終的に江戸の12か所ぐらいに設置されたという。 現代は、時間は様々な形で瞬時に知ることができるが、江戸時代は時の鐘だけが正確な時間を知ることができる貴重な存在だったし、のんびりしたスローライフな江戸市民の姿が浮かび上がってくる。 毎日訳もなく忙しく生活している私たちも、たまには残り少なくなった江戸の時の鐘を巡礼てみませんか?。今でも時間のタイミングがあえば、江戸の時の鐘の音が生で聞ができます。ゆったりとした時 空の中で江戸の鐘の音を聞けば、日々のストレスから解放されること請け合いですぞ・・・ 【時の鐘8つの場所】○=鐘が現存してる *=鐘は消滅して見られない。 ○石町の鐘:中央区日本橋小伝馬町5番、十思公園に保存 ○上野の鐘:台東区上野公園4番、精養軒脇 ○浅草の鐘:浅草寺境内弁天山の鐘楼堂 ○四谷の天竜寺:新宿区新宿4丁目3番 ○目黒不動尊の鐘:目黒区下目黒2丁目20番 *芝切通しの鐘:港区芝公園3丁目1番と同虎ノ門3丁目22番青竜寺の間の道筋 *市谷八幡の鐘:新宿区市谷八幡町15番地(現在の市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮)→鐘は消滅している。 *本所の横川:墨田区緑4丁目10番(大横川親水公園内に現物は無く記念碑だけが建っている) *赤坂田町の成満寺:港区赤坂3丁目10番→鐘は多摩市成満寺で保存されている赤坂には存在を示すものが何も無い。 |
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江戸ブームなどで賑わいを取り戻した浅草 |
浅草寺弁天山の時の鐘鐘楼堂(330年前) |
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上野精養軒そばの「上野の山の時の鐘」鐘楼堂 |
石町の時の鐘鐘楼堂(小伝馬町十思公園) |
油かけ大黒天神は珍しい・・・ 平成23年10月21日(金) 今日は小伝馬町の十思公園(伝馬町の牢獄跡=吉田松陰終焉の地)に隣接の身延山別院の「油かけ大黒天神」を訪ねた。水かけ・・・、塩かけ・・・など不動・地蔵さん等にいろいろなものをかける信仰は様々あるが「油かけ」は珍しい。 映画界の名優長谷川一夫は京都伏見の出身で、そこには「油かけ町」という町があり、昔、油売り商人が道端の石像に間違って油をかけてしまったが、それ以来 商売が大繁昌したという伝説があった。長谷川しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、たまたまこの油かけ天神を夢に見て、天神様から東京に祀って 大勢の人と結縁せしめよとのお告げを得たので、当時の身延別院の住職藤井日静上人に相談した結果、身延山別院にお祀りすることになりました。商売繁盛、開運、安産に御利益があり、毎日お参りの人が柄杓で油をかけてお祈りする姿をみることができる。 私も試しに柄杓で油をかけたが、ぬるぬるした油が大黒天の像からポタポタ落ちて、一寸変わった雰囲気を味わえた。江戸(東京)をあちこち歩いていると様々な面白い信仰と会えるのも楽しみの一つである。 |
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古河庭園の秋バラが見頃です! 平成23年10月20日(木) 明治時代、古河庭園はカミソリ宰相と評された「陸奥宗光」の邸宅だった。宗光の二男が古河財閥の創始者である古河市兵衛の養子となったため、所有権が古河家に移った。 その後大正6年に古河家3代当主によって西洋館と庭園が造られて現在の形となった。洋館と庭園の設計は、ニコライ堂や岩崎邸の設計者として名高い「ジョサイア・コンドル」の手による。また日本庭園は近代日本庭園の先駆者として著名な小川作兵衛により作庭された。 余談だが、陸奥宗光は日本の国益を外国に主張する強烈な個性を有する外交官として知られ、カミソリ宗光として海外からもその外交手腕を高く評価されていた。幕末の頃は坂本龍馬の海援隊の一員として竜馬とも親交を結んでいた。彼の剛毅さはそうした揺れ動く激動の幕末の倒幕運動から生まれたものであろう。それにしても混迷する現代日本の覇気のない政治家を見るたびに、書生ぽいな!と感じるのは私1人ではあるまい。(余談だが大切な話・・・) そんな古河庭園で洋館と見事に調和する「秋バラ」が見ごろを迎えています。「秋バラ・フェスティバル」は10月31日まで開催されています。 |
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江戸伝統の「べったら市」 平成23年10月19日(水) 日本橋の「べったら市」に行ってきました。「べったら市」は江戸中頃から宝田恵比寿神社の門前で10月20日の恵比寿講(商家で恵比須をまつり、親類・知人を招いて祝う行事)にお供えするため、前日の19 日に市が立ち魚や野菜、神棚などが売られるようになったのがその起源。 浅漬け大根のべったら漬けがよく売れたことから「べったら市」と呼ばれ、若者が「べったりつくぞ ぉ〜、べったりつくぞぉ〜」と叫びながら縄に縛った大根を振り回して参詣客の着物の袖につけてから かったそうだ。アメと麹で大根を漬け込んでいるため、衣服にべったりとついてしまうことからべった ら漬けという名になったと言われている。 十五代将軍徳川慶喜公もべったら漬けを好んで食べたと言われていることからも、江戸時代から続く 伝統ある漬物だ。今では「べったら」ばかりでなく、タコ焼きやなど多種多様な露店(約500軒)が軒を連ね、多くの人が集まる江戸の風物詩として息づいている。 歴史に育まれた伝統的な催事や風俗・習慣がことごとく消滅していく中にあって、日本橋ベったら市はホッと息のつける温かな触れ合いの場ともなている。 どの店も「べったら大根」は1本、1,500円で協定料金になっているらしい。いろんな冗談を言い合 いながら値切るのが江戸っ子の生きがいでもあり協定料金には少しがっかりである。それでも家に帰り早速ビールで「ベったら漬け」を所望しました。その美味しこと・・・美味しいこと・・・言葉がいら ないほどで、大満足の1日でした。 |
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寶田恵比寿神社の賑わい |
昔ながらの風景 |
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平成大歌舞伎中村座の浅草公演に思う 平成23年10月18日(火) 隅田川沿いを散策していたら、台東区今戸の隅田公園で鉄骨を組んだ写真のような施設の工事が進行中でした。歌舞伎の中村座が来年6月まで公演を行うための工事とのこと。 浅草といえば、1840年代に幕府の老中水野忠邦が進めた天保の改革により、当時、日本橋や人形町にあった歌舞伎一座を浅草寺裏の「旧浅草猿若町」に強制移転した事件が思い出されます。 強制移転の理由は幕府への批判を助長する歌舞伎は潰してしまえということらしい。しかし、南町奉行「遠山の金さん」が歌舞伎を潰すと江戸市民の幕府批判が起きるので、僻地の浅草に移転させてはという意見で落着したということが本当のようだ。 結果としては浅草寺と猿若町の歌舞伎と、人形町にあった旧吉原も浅草田圃に新吉原として移転され、江戸の賑わいの場所が浅草に揃う形になり浅草は江戸で一番の賑わいを見せたのは何とも皮肉である。 それにしても歌舞伎座は何故業務地の東銀座になければならないのか。大衆芸能の集まる浅草こそその立地条件にピッタリではと考えるのは私一人ではないと思うが・・・ そんな歌舞伎と縁の深い浅草、それも旧猿若町のすぐそばの今戸の隅田川の畔に、初代「猿若勘三郎」が元祖の名門中村座が期限付きではあるが歌舞伎公演を復活させることは素晴らしいと思うし、嬉しいです。チャンスがあれば見に行きましょう。 |
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中村座l公演の仮設テントの工事 |
猿若町の歌舞伎を伝える浮世絵 |
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伝通院の落慶法要に期待! 平成23年10月17日(月) 徳川家康公のご生母於大の方の菩提寺として著名な文京区の伝通院。、三代将軍家光公の次男、亀松君、二代将軍秀忠の長女、千姫を始め、徳川家由縁の方々の古い諸廟所が多く建っています。 そんな名刹と評される伝通院の総門がそろそろ完成の時期を迎える。寺の話では、総門の完成を記念して平成24年3月4日(日)に盛大な落慶法要を行うとのこと。 私は、比叡山の坂本で千日回峰行者の大阿舎利就任の美しい・雅やかな落慶法要を見たことがあります。余りの優雅さと美しさに言葉を失うほどでした。 想像ですが3月4日の伝通院の落慶法要は江戸(東京)では、再び見られないほどの盛大・華麗なものになると期待しています。 私が主宰する趣味人倶楽部の「花のお江戸を歩く会」でも、落慶法要イベントを企画します。会員と一緒に「本当の江戸の雰囲気」に浸りたいと今から期待が高まります。 |
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落慶法要が待たれる伝通院 |
家康の母「於大の方」の墓所 |
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