江戸は東京の始まり・・・ 江戸物語 ![]() 江戸城天守閣 江戸は東京の故郷・・・ |
大好きな江戸の町の日記を物語風に綴ってみようと思います。どこまで続くか自信はないのですが、自分自身の勉強の一環として、また江戸を愛する皆さんと一緒に江戸を考える一助になることを願って。 江戸は265年間を鎖国という世界史の中でも稀有な国家運営形態を貫いたため、江戸には、独特の芸術文化・生活文化が花開きました。 浮世絵を始め世界が注目する江戸文化は鎖国という世界に例を見ない「閉ざされた国家・地域・人」という特殊な社会的空間の連鎖の中で醸成された個性豊かな文化なのです。 江戸は東京の昔の姿であり、現代の東京と連続しています。江戸を知ることは現在の東京を知り、日本の明日の姿を発見できるキーワードを握っているのではないかと思います・・・【江戸英雄】 =令和6年9月1日開設= |
![]() 日本橋・江戸橋 |
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| NO7:江戸の町割りの基準 | 令和7年2月6日(月) |
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| 江戸城城下町は住む人々の身分により3区分に定められました。 @武家地=武士の居住地で徳川家の旧領地(三河・遠江など)から江戸に移ってきた家臣達が集団的に武家屋敷を構えた地域。大手門前の平川岸や城下各地に散在しました。特に、北の内(北の丸)から麹町にかけての高台には、代官屋敷や番衆(下級武士)長屋が置かれ、「代官町」「番町」と呼ばれました。 A寺社地=城下町周辺の交通も要所に設置することを原則としました。平川村(大手町付近)や局沢(西の丸台地を流れていた沢)にあった寺社は全て神田台や矢倉(東日本橋一丁目辺り)に移転しました。 B町人地=町人の住む町。大手門のある道三堀近辺や、太田道灌の時代から賑わった高橋を常盤橋と改名し、それらの東側に配置しました。城下町の基本となるもので「本町」(現在の日銀から三越本店あたり)と名付けました。 この本町周辺の町割りは、城下町として繁栄することを目標に平安京をモデルにし、一町を約121.2m四方に区画し、その中を「井」の字型に分けて、道路面に町屋を建て、中央は「会所地」といい裏空地とし、共同便所やゴミ捨て場としました。(参照:家康が作った町割り) 道路の幅も本町通りとクロスする日本橋通りは18.2mとし、その他の横丁筋は12.1m、6.1mと定めました。当寺、一般の城下町は普通で3.9m、広くても5.9m程度ですので、江戸の城下町計画は想像を超える大きさでした。徳川家康の大きな夢が理解できます。 , |
![]() 日本橋駿河町の図 広重 TOPに戻る |
| NO6:江戸の町作りが始まる | 令和7年1月6日(月) |
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| 徳川家康は江戸入国(1590年)と同時に大手門前に作業小屋を設置し浜松城の築城にも関わった「木原吉次・重次」親子に江戸の土木工事の実施計画案を作成させました。そして初の江戸町奉行に「天野三郎兵衛康景」を総責任者とし任命しそおの、配下に普請奉行や地割奉行(測量担当責任者)も任命し、新しい江戸の町づくりをスタートさせました。 先ずは町作りの基本である測量は「方位と距離」の測定でした。方位の測定は北極星を目印にする古くから伝わる方法で行われました。測定した北の方向を基に四方を30度ずつ十二等分して十二支【子・丑・寅・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥】に充て、北=子、東=卯、南=午、西=酉となります。【図1参照】 距離の測定は、尺【約30.3cm】と間【6.5尺=約1.97m(京間)】を目盛った 間竿と水縄が使われました。間竿は二間以内の短い距離を測る木製の物差しです。水縄はそれ以上の長い距離を測る道具で、太さ5ミリ程の縄で作られた巻尺です。【図2参照】 測定した方位と距離を計画案に従って定め「道や堀」の位置を決めていく。特に堀は建築物資・生活物資を大量に運ぶために重要であり、平川河口から江戸城大手門近くまでの道三堀が、計画の一番最初に掘られました。続いて千葉・行徳から主に塩を運ぶために隅田川の東に小名木川が掘られました。【図3参照】 また、海辺の町作りであったので塩害などで良質の飲料水が得られないために小石川沼から水を引いて飲料水とする「神田上水」が誕生し。赤坂溜池の飲料水化も進められました。 こうして江戸湊の海辺の原野に計画された江戸の町作りは、大土木工事が多方面に展開した結果、やっと人々が住むことのできる場所に変化していきました。 |
【図1】![]() 【図2】 ![]() 【図3】 ![]() TOPに戻る |
| NO5:家康の都市計画とは | 令和6年12月19日(木) |
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| 徳川家康は江戸入府と同時に「江戸城」と「江戸の町」を作る綿密な都市計画を構築していました。江戸城は先に太田道灌が築いた平山城がベースになるが、城下町は平地に作ることを基本としました。 江戸の人々にとっての理想郷として、中国の都「長安」で隆盛した天文学と地理学を合わせた「陰陽学」を町作りの原理とし、それを具体化した「四神相応の地形」を範として「江戸の町づくり」を進めることとしました。京都の平安京も「四神相応」の原理に基づいて作られました。この考え方は家康の側近として仕えた「天海大僧正」も強く支持しました。 その陰陽学では、宇宙を司る東南西北の四神を祀る以下のような地形を基本として都市計画を進めるよう示唆しています。 東=「青竜」が宿る川、南=「朱雀」の神が宿る池か海、西=「白虎」の神が宿る道、北=「玄(黒)武」の神が宿る山 【京都平安京の場合】 東=鴨川、南=巨椋池(現埋立地)、西=山陽道、北=船岡山 【江戸の場合】 東=平川、南=隅田川〜江戸湊、西=東海道、北=麹町台地〜富士山 *この配置により虎ノ門とか竜の口などの地名が残されている。 【江戸の町の四神相応】 ![]() ★世界都市「東京」の四神相応の地形的骨格は、令和の現代もそのまま継承され町は発展し続けています。これは「国家はどうすれば成長させることができるか?」という問いに対する徳川家康の慧眼と言えるでしょう。 |
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| NO4:徳川家康の関東御入国 | 令和6年11月27日(水) |
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| 徳川家康は、天正18年(1590)8月1日、八朔の秋祭りの日に江戸城に初めて入城し、関東支配が始まりました。俗に「関東御入国」などといわれ、八朔の日は幕府の記念日になりました。 この少し前に豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし天下を統一しました。その重要な武将として殊勲大だった家康には、北条氏の領地=間八州(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)を与え、引き換えに家康の旧領地=駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を取り上げました。 この国替えは、徳川家の出身地を離され、遠い田舎に追いやられるような不利な国替えでした。本多・榊原・伊井ら重臣はこぞって反対したと伝えら得ます。 一方、秀吉は前向きにこの命に従い、かつ。鎌倉・小田原という旧来型の都市を見捨てて、さらに東方の草深い江戸に目を付けました。 おそらく家康は大田道灌が築城した江戸城が眼前に良港を持ち、後背に広大な武蔵野台地を控えて、この地が大いに発展すると考えたようです。この先見性こそが徳川265年の強固な政権基盤を作ることになるわけです。 しかし、当初の江戸城は石垣もなく土留で固めた粗末な城で建物も板葺きのみすぼらしいものでした。しかし家康は満足し、その後に繰り広げられる遠大な江戸の城・町づくりの建設計画に着手していきます。 |
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| NO3:大田道灌と江戸城(室町時代) | 令和6年10月12日(土) |
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| 15世紀の室町時代、江戸は室町幕府の関東管領「上杉 定正」の支配下にありました。定正の重臣「大田道灌」は1457年に、鎌倉時代に江戸重長が建てた「江戸館」のあとに江戸城を築きました。 今から約500年以上も前の頃から武蔵野台地の南端で江戸湊と接する江戸城の場所は、軍事戦略の重要拠点だったようです。道灌はこの水利を軍事に生かすべくこ築城の場所としてここを選んだといわれています。やはり知将だったようです。 日比谷入江を見下ろす高台に築かれた大田道灌の江戸城は、中(本丸)・子(二の丸)・外(三の丸)の三郭からなり、多くの倉や厩が並び櫓や石門も備えた関東一の名城といわれるようになりました。しかしその実態は石垣はなく芝土手で、城中の建物板葺きの田舎屋のような質素なものであったようです。 この頃京都は、応仁の乱で長期間戦場になり、都としての華やかさは失せていました。多くの学者や僧侶は、荒れ果てた京都を捨てて,新しい可能性を秘めた大田道灌の江戸城周辺に集まってきました。こうして平川村が賑わい始め、江戸城下町の形ができてきました。 しかし、室町時代の江戸の繁栄は長く続かず、1486年に大田道灌が主君の上杉定正に暗殺されてしまいました。 こうして賑わいを見せ始めていた道灌の江戸城下町はすっかりさびれ再び元の草深い田舎のようになってしまいました。 |
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| NO2:江戸の原風景(鎌倉時代) | 令和6年9月18日(水) |
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| 江戸という名の由来は、江(入江)の戸(入口)という立地条件からきています。隅田川が現在の東京湾に流れ込む低湿地一帯を名づけたものと考えられます。江戸時代に江戸湊と言われた所です。 その江戸湊の西側には、武蔵野の広大な台地が広がっています。古歌に「武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」とうたわれ、葦やすすきが延々と続く原野でした。 その武蔵野台地はさらに5っの小台地に分かれ、西から東へ、品川台地・麻布台地・麹町台地・本郷台地・上野台地と続いていました。それら台地の間には、川や沼が点在し、江戸湊に注ぎ多くの入江を作っていました。 その入江で最も大きく遠浅で海苔が良く取れた入江が日比谷でした。日比谷の地名は海苔をとるために海中に編んだ竹=ヒビに由来しています。その先に大きな中州があり江戸前島と呼ばれ,東側を白川が流れ流域には早くから村があったようです。 このあたり一帯を支配していたのは、鎌倉幕府成立に活躍した坂東武者の棟梁「江戸重長」です。 江戸重長は、平川に面した麹町台地の東端(現在の皇居東御苑あたり)に「江戸館」を建てて、軍事戦略の拠点としました。江戸城の歴史の始まりです。 *画の入江部分が日比谷入江で右端の川が隅田川です。 |
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| NO1:江戸時代前の日本の姿 | 令和6年9月1日(木) |
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| 日本に都が定められたのは約1,300年前の「平安京」です。そのころ世界の大都市であった中国の「長安」にならって、長安の1/4ほどの規模の「平安京」が誕生しました。現在の「京都」の始まりです。以来、江戸時代まで、日本は京都を中心に政治・経済・文化が定着しました。 その当時の江戸などの東方地帯は、山岳や荒野の連続する荒ぶれた土地で、人が住むことは難しい地域で下。わずかに京都から太平洋の海岸線を走る「東海道」、中部山岳地帯を抜ける「東山道」があるのみでした。そして東海道にある「足柄山」から東を「坂東」、東山道に連なる「碓氷峠」から東を「山東」と名づけました。現在の関東平野です。 この関東地方の中央に坂東太郎と恐れられた利根川が流れ、その下流が隅田川でした。京都より関東に下って来た在原業平は隅田川のほとりで「名にしおば いざことはん都鳥 わがおもふ人は ありやなしやと」と遠く都を離れて僻地に来てしまった寂しさを歌い上げています。 しかし、この荒れた土地は荒野を馬で駆け巡る戦に強い武士集団=坂東武者を育てる土壌となりました。その土壌こそが鎌倉時代を経て大田道灌〜徳川家康へと武家社会が時代の潮流になり、関東〜江戸が日本の政治経済の中心になる時代を作り上げたのでしょう。 |
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